作:石塚環

あの日の約束は覚えているのは、俺だけなのかな。 「なおちゃん、なおちゃーん」 近所の原っぱで兄貴たちと遊んでいると、おまえはいつもケーキ屋から飛び出してきて俺のあとをついてきた。 「ついてくんなよ。それに何度言ったらわかるんだ。俺の名前は直樹だから」 「なおちゃんがいい! なおちゃんあそぼー」 俺の服を引っ張るおまえは、本当に邪魔だった。おまえがいると兄貴たちがする本気の遊びに加われなかったからだ。 ある日、空地の隅でふたりでしゃがんでままごと遊びをしていると、彼女が不意にいった。 「いいなあ。なおちゃん家はお花屋さんで。きれいなお花いっぱいだもん」 「ケーキ屋の方がいいって。花なんていっぱいあっても食えないから」 「あ、いいこと思いついた!」


彼女が急に立ち上がった。立っても俺とあまり目線が変わらない。 「食べられるお花があればいいんだよ!」 「そんなのねえよ」 「あるかもしれないよ」 「ねえって。花屋の俺がいうんだから」 「それじゃあ、あたし作る! なおちゃんが食べられる甘いお花作る! いまからがんばったら、大人になったら作れるようになるかも!」 彼女は俺に向かって手を伸ばすと、小指を立てた。 「約束するよ。待っていてね、なおちゃん」 「……おう。がんばれよ」 彼女の指は俺のよりもずっと短くて、絡めようとしもうまくできず小指同士を触れ合うことしかできなかった。興奮気味に話すおまえに、「絶対無理」なんていえなかった。 おまえはいまも、できやしない夢を追いかけているのか。 ……なんて、聞けないか。高校生になったおまえはあの頃の面影をすっかりなくしちゃったものな……。 登校前にリビングにあるカレンダーをチェックする。 今年のバレンタインデーは、土曜日にあるのか。今日は月曜だから一週間逃げまくればいいんだな。 手袋をつけて自転車に乗った。立ち漕ぎでスピードを上げる。登下校中も気が抜けない。なぜなら手渡しのチャンスだから。 「桜木くん!」 しまった。赤信号で停まっていると、ひとりの女子生徒がやってきた。隣のクラスの学級委員長だ。 「これ……義理じゃなくて……」 「チョコはいらねーから。彼女も必要ないから!」 ちょうど信号が変わったので、俺はタイヤから煙が出るくらいの全速力で逃走した。 学校に着くと自転車を駐輪場に停めて、玄関で靴箱を開けた。なかから、四角や丸、ハートなどいろいろな形の箱がこぼれ出る。 「うわ~、今日は四個か。えーっと、三年A組の……って、この先輩去年もくれたよなあ。こっちは一年かあ。来年は勘弁してくれよ……」 中身を開けて確かめると、それぞれの箱を差出人の靴箱に入れた。朝っぱらから五人の女子の想いを踏みにじることになったか。許せ。 俺が欲しいチョコレートはあいつからのだけだから。 一年の教室に向かう。廊下を歩いていると後輩女子の声が聞こえる。 「桜木先輩だー。ほんとカッコいいよね。『南高の奇跡』ってあだ名通りだわ」 「でも、告白した子みんなフッているんだって」 「今日もC組に行くんだろうなあ。やっぱ、つきあっているのかな。うらやましい!」 俺は知らなかった。部活と学校祭と体育祭で目立ってしまうと女子の注目を浴びるんだな。出身中学が少人数だったから、チヤホヤされるとはどんな現象なのか全く理解していなかった。 女子たちの圧力にビビるけれど、下級生のクラスに行くのはやめられない。なぜなら――。 「おはよう、今日も天気がいいな!!」 「あ、直樹。おはよう。曇りだから普通の天気じゃないの」 教室に入ると、窓際の席に座って勉強している女子生徒に声をかけた。ひとつ年下の幼なじみ。昔は「なおちゃん」なんて呼んでくれたのに、いまでは呼び捨てのつれない奴。 「今日は何?」 「何ってわかっているだろ。もうすぐバレンタインデーだから、どんなチョコをくれるか偵察に来たんだよ」 「あげない」 「え?」 「今年はチョコあげないから」 「ええーっ!?」 自分の席で突っ伏していると、クラスメイトに口々にいわれた。 「調子に乗りすぎなんだよ、直樹は。いつまでも手作りチョコくれる訳ないだろ」 「きっと彼氏ができたんだって」 机を叩いて立ちあがった。 「失恋なんていやだ! どうにかできないのか!?」 「告ればいいじゃん」 「今更なんていえばいいんだよ! 教室行くだけで心臓飛び出すくらいドキドキしてんだぞ。毎日会いに行けば察してくれると思ったのに、それなのに……」 周りにいる友人たちが失笑した。 「めんどくせー奴」 「あ、あれいいんじゃね。逆チョコ。男子が女子にチョコあげるんだよ」 俺は拳を握った。 「それいいな。よし、長年の想いをチョコにぶつけてやる」 放課後、スーパーの催事コーナーで手作りチョコレートキットを買った。帰宅すると、キッチンでチョコ作りに取り掛かった。 電子レンジで溶けていくチョコを見ながら思った。 クッキーとかカップケーキとか、いろんな女子からお菓子をもらった。みんな、いまの俺みたいに不安になりながら調理したんだろうな。いつも突き返したけれど、ひとくちくらい食べればよかったのかな……。 チョコレートをタルト型に入れた。冷蔵庫にしまうと、リビングのソファに横になった。 「あとは固まるの待つだけ……」 慣れないことをしたから、うとうとしてきた。チョコをおいしそうにほおばる彼女の笑顔を思い描きながら、俺は眠りについた。 「直樹。これ超うめえぇ!」 目を開けると、兄貴が何か食べている。 「おい、それ、俺のチョコ! ああ、全部食っちまったのか!?」 「ちょうど腹減っていたんだよ。ごちそうさん」 呆然とする俺を置いて兄貴は二階へ行った。どうすりゃいいんだ。 「直樹ー。ちょって手伝ってくれ」 店先から親父の声がした。ちょうど業者のトラックが来ていた。運ばれてくる花々を見て俺はひらめいた。 「親父、この花くれ!」 ケーキ屋に向かうと店舗の隣にある二階へ通じる階段を上がった。インターフォンを押すと、彼女が出てきた。 背中に隠し持っていたブーケを彼女に差しだした。チョコレート色の薔薇の花束。 「これ。バレンタインデーにもらうの当たり前になっていたから、俺からも何か贈ろうと思ってさ」 「もしかして……嫌味?」 「え……」 彼女はあふれる涙を手でこすった。 「私がいつまで経っても食べられる花を作れないから、こんなの贈ってきたの?」 「違うって、俺は、おまえのことが……好きだから……」 花束を床に落とした。泣きやまない彼女の背に腕を回す。 「直樹のこと追いかけたくて高校も同じところに入ったのに、みんな直樹が好きで……私、勝ち目ないと思っていた……」 「いつも俺が断っていたの知っていただろ、ん?」 「でも自信なんてないよ。いつかあの頃みたいに、「ついてくるな」っていわれると思っていた」 俺の胸にしがみついて彼女は鼻をすすった。その姿は幼かった頃と何ひとつ変わっていなかった。 「あのね、本当は今年も作ろうと思ったの。チョコに飴細工の花をくっつけたの。でも全然うまくできなくて……」 「そうだったのか。それならまた約束してくれないか」 彼女の頬をぬぐうと、俺は小指を立てた。 「へたくそなものでもいいから今年も俺にチョコを贈ること。それから――」 彼女の耳に唇を寄せた。 「俺の彼女になること」 さっきまで泣き顔だった彼女が笑う。何度もうなずくと俺と指を絡めた。