言葉を交わさない時間がかれこれ二時間は経過した。

今日は久しぶりに二人そろっての休日で、彼の部屋で二人きりという状況であるにもかかわらず、お互いの距離はやや開いている。

前日に恋人の彼から家に来ないか、と電話で連絡を受けたわたしは、二つ返事で「行く」と伝えた。
「じゃあ待ってる」と眠たそうな声を残し、彼は電話を切った。
彼の電話を切る様はいつも非常に潔いので、恋人にあるあの「お決まり」の流れをやらせてもくれない。

特別したいと思ったことはないけれど、少し憧れているのは確かだ。そんなことはさておきながら、わたしは翌日彼に久しぶりに会えることを嬉しく思いつつベッドに潜り込んだ。

そして今に至る。彼は自分の部屋で一番好きな場所、ふかふかなクッションが置いてあるベージュのソファの端に座り、溜め込んでいた小説を読みふけっていた。
一方のわたしは同じソファの、彼とは反対側の端で雑誌を読んでいる。けれど内容なんて頭に入るはずもない。
あることが頭の中を支配していたから、流行の服に関する内容を目で追うばかりで理解することはまるでできていなかった。

彼はわたしに対してもう興味がなく、ただ恋人の素振りをしてくれているだけなのではないか――そう感じてしまうのは今の状況に限ったことではない。
彼のわたしに対する普段の態度もその要因の一つだ。

今のような二人きりでいるときでさえ、彼はわたしに触れてきたことはない。
わたしから仕掛けない限り彼は手すら握ろうとはしないのだ。
外にいるときなんてもっての外だと言っていい。

わたしとしても執拗にべたべたしてほしいわけではないけれど、何もされないというのも悲しいものがある。
わたしだけが彼を好きでいるのではないかと強い不安を感じてしまうのだ。
そうしてわたしもまた彼に触れることを次第にためらうようになった。

言わない、言えないだけで、彼の本当の心はわたしにはもはや向いていないのだと考えるようになった。

そもそもわたしが彼に好意を告白したことが始まりの恋愛関係だった。
意を決して伝えた言葉は「好きです。お付き合いしてください」という何とも味気のないものだったけれど、彼も「よろしくお願いします」と受け入れてくれた。
だから、きっと当時は少なからず好意を抱いてくれていたに違いない。
けれど今はどうなのかがまるでわからず、考えれば考えるほどむなしさだけが残る。

ふと「ねえ」という声が聞こえて、わたしははっと我に返った。自分の世界に陶酔しすぎていたらしく、無意識に溜息をついていたようだ。本から視線を上げた彼がわたしを見ていた。

「疲れてる? 最近忙しかったって言ってたね」

どうやら彼はわたしが仕事の疲れのせいで溜息を吐いたと思ったようだ。

「うん、でも大丈夫。……自分の方こそ、そんなに本を溜め込むほど忙しかったんでしょう?」
「まあ、程々ってところ。それにおれが文字読むの遅いせいもあるかな。
それより、疲れてるなら眠っておいたら? 夕飯時になったら起こすよ。毛布取ってこようか」

わたしが眠るということは決定事項とでも言うかのように彼が立ち上がりかけたとき、わたしは咄嗟に彼の腕をつかんでいた。
驚きで見開かれた目がわたしを見下ろし、「どうしたの」と無言で問いかけてきた。

――今しかない。

わたしは彼の問いには答えず、黙って彼の腕を引いて無理やりソファにまた座らせた。
そして身体を移動させて距離を詰め、彼に密着するほど身体を寄せた。

「この距離でも、何かしたいとも思わない?」

鼻先が触れるくらいまで顔をぐっと近づける。彼の目の揺れ方で、困らせていることは一目瞭然だった。
それでもやめるべきではないとでも言うように、わたしの頭の中の警鐘は鳴り続けていた。

「わたしは、あなたの本当の気持ちが知りたいよ」

情けなく泣きそうになるのをこらえ、声を震わせないように極力努力した。
静かな時間が流れる。返事を待つ間、わたしにとって息をするのも苦しく、喉はからからだった。

ようやく彼が口を開いたかと思えば、

「……言っていいの?」

と真剣な面持ちでわたしに訪ねてきた。わたしは一呼吸置いてから頷いて見せる。けれども、その反応を見た彼は眉根を寄せてうなだれてしまった。

「言ったら驚くよ、君。おれに幻滅する」
「簡単に幻滅するほどわたしがあなたのことを好きじゃないとでも?」

彼はぐ、と言葉に詰まる様子を見せた。どうやら効果てき面のようだった。
彼は一つ咳払いをすると、その真ん丸な黒い目で、鈍足な雲が視界の端から端まで流れる様がじっくりと観察できそうなほど長い間わたしを見つめてきた。

今度はわたしが彼の視線に耐える番なのだ。
普段あまり語ることの少ない彼の口から本音がぽろぽろと零れ落ちることを、たとえわたしにとってつらい現実だとしても、期待している自分がいる。
けれど、その心配こそが杞憂だということをわたしはすぐに思い知ることになった。

「じゃあ、言うよ。
君といると、触れたいと思う気持ちがいつも以上に強くなるんだ。
言わないだけで、いつもこうなんだよ。

君が側にいないときだっていつも同じようなことを考えてる。
会いたいなあ、声が聞きたいなあ、髪の毛のにおいをかぎたいなあとか。

ああ、うん、その驚いた顔もおれはすごく好きだな。

ええと、話が逸れた。

それでね、おれは常に君に触りたいという欲求を寸でのところで抑えてるんだ。
今も君の手を握りたくてうずうずしてるし、あわよくば抱きしめたいとも思ってる。
だってこんなに近くに大好きな君がいるんだ。
普通恋人が側にいるのに何もしたくないと思うはずがないだろう。
いや、もちろん側にいるだけでも十分幸せなんだけど。

でも、そうは思っていてもおれの強い気持ちだけで君に触れたら、きっと嫌われると思った。
だから君が求めるときだけ、触れるのを許してくれるときだけ、ぼくはきみに触れる権利を手に入れてたんだよ」

激流を思わせる吐露だった。
声を失ったわたしをよそ目に、彼はまるで初恋の相手を前にする少女のように頬を紅潮させていた。その愛らしさといったら!

けれど彼はわたしが驚きのあまり沈黙していることを、彼への気持ちに対する否定と受け取ったのか、その大きな手で自分の顔を覆ってしまった。

「……ほら、やっぱり幻滅しただろう。だから普段口にはしなかったんだよ。ああもう言わなければよかった」

「ううん、むしろ健全であってくれて安心した」

「茶化さないでくれよ」

「茶化してないよ。わたし心配だったもの」

彼は手をどけて、首をかしげた。

「もともとわたしがあなたに好きって言って始まったお付き合いだったでしょう。わたしだけがあなたのことが好きなんじゃないかって思ってた」

「え? そんなことないよ」

「うん、今はわかる。でも不安だったの。わたしが言わない限り触れてもくれなかったから、あなたはわたしに同情して恋人らしいことをしてくれているんじゃないかって考え始めてたくらい」

彼からの愛情はすでにちゃんと伝わったはずなのに、それでもわたしの声は次第に涙混じりになっていった。
安心したからこそ、今まで張りつめていた緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。
瞬きをしたとき、熱い涙が頬を伝った。

自分でぬぐおうとしたらそれを彼の手に止められ、そして彼自身こそ泣きそうな顔をしながらわたしの涙を指で掬った。

「ごめん。好きだよ。本当に、心から。こんなに好きになった人は初めてなんだ。だから触れるのが怖くなってた。でもそれが君を不安にさせてたんだね。ごめん」

優しい声が降り注ぐ中で、わたしはしゃくりあげる声を抑えることに精一杯で、首を振るだけしかしてあげられない。涙があふれるたびに彼はそれを何度も何度もぬぐうことを繰り返した。

――わたしは愛されている。

そう思うだけでわたしの胸はいっぱいになり、彼を安心させてあげられる言葉さえ出てこなくなってしまう。

涙が落ち着いた頃、彼は優しい顔でわたしを見つめながらそっと囁いた。

「君に触れたい」

ゆらゆらとその目の中に込められた甘い熱が、わたしを強く求める彼自身の心を表していた。
わたしは溢れだす笑顔を隠す振りをして、自分の腕を彼の背中に回し、

「たくさん愛してください」

ただ一言そう告げた。