作:虚空花(@morino_hana

声を聞かせて 第1話
声を聞かせて 第2話
声を聞かせて 第3話
声を聞かせて 第4話
声を聞かせて 第5話
声を聞かせて 第6話
声を聞かせて 第7話
声を聞かせて 第8話
声を聞かせて 第9話


俺、大宮黎斗(おおみやれと)が亜紀(あき)と初めて出会ったのは、小三の夏だ。  転校したての俺に、真っ先に声をかけたのが亜紀だった。  初めて見た時、俺は亜紀のことを男だと思った。それを本人に言った時、殴られたので、今でもよく覚えている。  短い髪に着古したズボンとTシャツ。貧乏だから服がないと亜紀はいつも笑って言った。それでも溌剌とした亜紀は眩しく、クラスの人気者だった。


 俺は手の中でぬるくなった缶コーヒーを飲み干すと、近くのごみ箱に投げ入れる。先に講義が終わった俺は、別科目を受ける亜紀を待っている。  亜紀のほうが終わるまで一時間半。だがそれを、長いとは思わない。亜紀が振り向くまで待っていた時間のほうが、よっぽど長かったから。


 亜紀は覚えているだろうか。俺が「ずっと一緒にいる」と約束したことを。  亜紀を縛りたくて言ったわけではないので、忘れたところで、まあ、どうというわけでもないんだが。  俺に落ちてくれて、嬉しい反面、傷をダシにつけこんでいるようで、ちょっとだけバツが悪いかもしれない。  なかなか癒えない亜紀の傷。  亜紀が男を怖いと思い始めた理由を、本当は知っていた。  彼女が変わったのは――あの人のせいだ。


 小五の時、亜紀のお母さんが再婚すると言って、連れてきたおじさんがいた。  その頃には既に亜紀と俺はお互いの家を行き来するくらい仲が良かったため、何度か会ったことがある。  おじさんは会う度に、俺にも高そうなお菓子をくれた。結婚も秒読みだと言って、亜紀は喜んでいたけど――。  ある日、おじさんは急に亜紀のうちに来なくなった。


「君のことを男の子だと思っていたんだ……残念だよ」  おじさんは冷たい目で亜紀にいきなりそんなことを言って去っていった。  その時一緒にいた俺でさえ、気分が悪くなったくらいだから、亜紀がどれほど傷ついたかは言うまでもない。  亜紀のお母さんよりもずっと年配の彼は、小さな店を経営しているらしく、跡継ぎが欲しかったそうだ。  頭が良くて利発な亜紀を可愛がってくれていたが、その下には打算も含まれていたらしい。  素直な亜紀はお父さんと呼んで慕っていたけど――おじさんが突然嫌な顔をして出ていったことで、彼女は他人をあまり信用しなくなった。  だから俺は、自分だけは離れないと何度も亜紀に言った。  今では俺のほうが離れられなくなってしまったけど――できることなら、昔の亜紀を取り戻してほしかった。  亜紀の笑顔は、いつも周囲を明るくした。そんな彼女がいつの間にか、教室の隅で小さく佇むようになった時、なんとも言えない気持ちになったものだ。


「――って」  ふいに俺の頭が重い物をぶつけられたような、鈍い痛みを感じた。  気づくと目の前には、分厚い本を手にした亜紀がいた。 「……本が可哀想だ」 「つっこむとこそっちなの! しかも白衣のままだし」  俺はいつの間にかベンチで寝ていたらしい。立ち上がった俺を見て、亜紀は「仕方ないわね」と言いつつ、俺の白衣を畳んでくれた。  面倒見の良い亜紀は、なんだかんだと俺の世話を焼いてくれる。  白衣を一生懸命畳むその姿が可愛くて、なんとなくキスを落とすと、亜紀は跳び上がって驚いた。 「な、何すんのよ! こ、こんな人の多いとこでやめなさいよ!」 「人が少ないところならいい?」  ビクビクしながら周囲を見る亜紀に言い返すと、またもや本で殴られた。


 大学からそれほど遠くない静かなベッドタウンの、ちょっとだけ治安の悪いところに亜紀は住んでいる。  亜紀を家まで送った俺は――いつもなら亜紀の手料理を食べて帰るところだが、今はキツイ課題を抱えているので、そうそう寄ることもできず。  俺が「またね」と言って、名残り惜しいながらも自宅に帰ろうとすると――途中で上着のすそを掴まれる。 「……今日も電話、するから……」  照れて俯く亜紀は、やけに色っぽくて抱きしめたい衝動にかられた。  だけどそれだけじゃ済まなくなるのを懸念して、「わかった」と挨拶程度のキスをする。


 ――亜紀は電話で俺の声を聞くと安心するらしい。  それもまあ、前から知っていた事だけど。  小さい頃から亜紀は、夜になると俺に電話してきて、他愛のないことを一方的に喋った。  「うん」とか「そうだね」くらいしか返せない俺の、何がそんなに安心するんだろう。  声が聞きたいのは、きっと俺のほうだ。  亜紀が11時きっかりに電話してくるのはわかっていたから、いつもその時間までに用事を済ませるようにしていた。スマホの充電もきちんとするし。  毎日電話の前で俺が待っていると知ったら、亜紀はどんな顔をするだろうか。


 数歩すすんで振り返ると、俺を見送る亜紀と目が合った。  少し前までは、何か言いたげな顔をしていたけど、最近は朗らかに笑う。まるで眩しかったあの頃のようだ。  違う場所にいても、俺達が繋がったままだということに、ようやく気づいてくれたのだろう。  ――そう、俺だけはうんざりするくらい一緒にいるから――覚悟してよ。  そして俺は、彼女の電話が来る前に課題を終わらせるべく、急いで帰ったのだった。