作:カメ美(@midogame

恋と甘いが浸透中  その1

「それじゃ、よっちゃん。申し訳ないけど、そろそろ上がるわ」
「はい、お疲れ様でした」
「三島さんにもあまり根つめないように言ってやって。まぁ、多分難しいだろうけど…」


データ復旧作業の為に会社で夜通し作業をすることになった葵と笠原。
葵はパソコンの前で山積みの資料を捲り、データを入力。目線は資料とモニターを往復し瞬きは殆どない。同僚の男性社員はそんな葵に気遣いつつ会社を後にした。
時刻は20時過ぎ。普段なら21時過ぎまで残業している面子がちらほらいるが、今日はこんな事態のせいか周囲が気を使ってこの時間には葵と笠原の二人だけ。


「三島さん、ちょっと一息入れてご飯食べよう。部長が差し入れしてくれたお弁当があるからさ。デザートにプリンもつけてくれたって」
一応仕事中だが、自分達以外は全員退社してしまったので笠原はオフモードのくだけた口調。
「ねぇ、三島さんってば!」
笠原の呼びかけに葵は生返事。ただひたすら目の前の作業に一点集中。
パンッ!笠原は葵のすぐ横で大きく手を叩いた。
「ひゃっ!びっくりした…!ちょっと笠原さん、いきなり何するんですか!」
「俺が声かけてるのに上の空なんだもの、どんだけ集中してるわけ?俺もいるんだから、そんなに早々に根つめないでよ。まだまだ先は長いんだしさ」
葵はふと腕時計を見ると、社内を見渡した。いつもはそれなりにガヤガヤしている空間がしんと静まり返っている。
「もう会社に誰もいないんですか?」
笠原は葵の問いかけに頷くと葵の隣に腰掛けた。


「今日は一緒に作業してもらうことになって本当にすみません…」
「そうやって何度も謝らなくていいよ。緊急事態なんだから仕方ないでしょ。大概はバックアップのデータを元に復旧するはずなんだけどなぁ。
毎日こつこつと確定させたデータをまた入力するとか、かなりがっくりする作業だよね」
葵は疲れた顔で作り笑いをするとなだれが起きそうな書類の山を整えた。
「でもこういうトラブル、初めてじゃないんだよね?」
「はい。半年くらい前にもあって、その時も徹夜作業でした」
「はぁ…」
呆れたようにため息をつく笠原に葵はこうして作業を手伝ってもらうことに対して申し訳なくて罪悪感を感じてしまう。
「いくらこのビル自体には夜中も警備さんがいるとはいえ、女性社員を徹夜作業要員として一人会社に残して皆帰っちゃったんでしょ?」
「私しかその仕事できる人いなかったので仕方なかったんです」
「三島さんはさ、もっと周りを頼ってもいいと思うよ?何でも一人で抱え込んでたら潰れちゃうよ。
今までは会社の体制とかもあって一人だったかもしれないけれど、今は俺がいる。三島さんが責任感強いのはわかるけど、
同じ仕事してるんだから、これからは俺を頼ってよ」


今まで仕事を教えた後輩達は自分の元から離され、ずっとずっと、何でも一人で抱えざるを得ない状況だった。
それでも、誰かを頼るとその人に負担がかかるし申し訳ない気がした。
誰かに頼むよりトラブル発生時は自分で作業をした方が早いと思った。
それゆえ、一人で必死にこなしてきた。


「三島さんは一人じゃない。だから俺を頼って?」
笠原のこの言葉を聞いて、葵は胸の奥が熱くなるよりも先に一筋の涙がこぼれた。
それは一粒、二粒とどんどん流れ落ち、やがて溢れる無数の涙。
こんな風に誰かに慰められることなんてなかった。
何が起きても「三島さんはしっかりしてるから大丈夫だよね」その一言で片付けられてしまった。
だから誰かに頼るなんてできなかった。
のしかかる重みも全て一人で背負い込んできた。
笠原かけてくれた言葉。気持ちがこもった優しい言葉。
葵のガチガチになった心に染みる今まで感じたことがない甘さにも似たもの。


「あ…、ごめんなさい…っ」
笠原の言葉に葵の涙は止まらない。止めないと笠原にも迷惑がかかってしまう、そう思っているのに。
葵は慌ててジャケットのポケットからハンカチを取り出した。そして涙を拭おうとした瞬間、視界が何かに遮られた。
「えっ、笠原さん…っ?」
そう。葵は笠原に抱きしめられていた。背中に回された笠原の腕が温かい。
あまりにも突然の出来事に葵は言葉が出ない。
「辛い時は誰かを頼ったり甘えたりしてもいいんだよ?俺は君の力になりたい」


それから葵の涙が止まるまでどのくらい時間が経過しただろう。
タオル生地のハンカチで目元を押さえていたから、目の前にある笠原のワイシャツやネクタイはかろうじて濡らさずには済んだ。
笠原は涙が落ち着くまで葵を抱きしめたままだった。
ようやく涙が引き始めたところで笠原は葵に優しく声をかける。
「どう?落ち着いた?泣いたらすっきりしたでしょ?」
「はい、取り乱しちゃってごめんなさい…。私、今までずっと、自分がやらなきゃ。誰かに頼っちゃいけないって思ってたんです。
だからこうやって優しい言葉をかけてもらったのも初めてだったので…」
散々泣いた後の鼻声で弱々しい葵の声に笠原は抱きしめたまま、優しくなだめるかのように頭をぽんぽんと叩いた。
「三島さんには俺がいる。辛い時には俺が君を支えるから」
弱っている時にこんな風に誰かに優しく言葉をかけてもらえることがこんなにも心に染みるのか。
葵は笠原の腕の中で小さく頷いた。
突然抱きしめられたことには驚いたが、笠原の腕の中はとても心地がよい。
笠原の優しさに葵のよどんだ心が潤う。仕事で男性にこうして優しい言葉をかけてもらうこと自体が初めてだったのだ。



葵はふと気づく。目元を押さえたハンカチが黒く染まっていることを。
ジャケットのポケットから慌ててスマホを取り出すと、ストラップとしてつけているマスコットの鏡で自分の顔を確認した。
「ウォータープルーフなのにマスカラが全部落ちてる!」
マスカラが溶けて下まぶたがどろどろになった何とも酷い状態。いわゆるパンダ目。
これは人様に見せられたものじゃない、と思ったのも束の間。目の前には笠原がいるのだ。
「あれだけ泣いたら化粧が落ちるのも仕方ないよねぇ」
真っ赤な目に腫れぼったいまぶた。そして溶けたマスカラの黒いオプション。
女子なら人前では晒したくない状況に葵は慌てるが、笠原はそんなことは気にも留めていないようだ。


「もしかして化粧がぼろぼろなの気にしてる?」
「当然ですっ!一応私だって女子なんですから!本当、かっこ悪いところばっかり見せてごめんなさい…」
「三島さんって人前で泣いたりとかしないタイプでしょ?
だから俺の前で泣いてくれたってことが嬉しいんだよね。気を許してくれたってことだし。
じゃ、落ち着いたところでご飯にしよう」
笠原は再び軽く葵を抱きしめると、葵のぐちゃぐちゃの感情を慰めるかのように背中をポンポンと優しく叩いた。
そして立ち上がると、「頑張るようにって部長がとんかつ弁当買ってくれたんだって。
駅ビルに入ってるお惣菜屋さんの結構お値段いいやつらしいよ?これ食べて頑張ろう」
笠原は独り言にしては大きな声を発しながら弁当が置いてある会議室に向かった。
その背中は広くて、頼りがいがあって。葵には笠原の言葉全てが甘く優しく、心に染み渡った。