作:マリエ(@plankton0304


その日、久しぶりに仕事で外回りに出た私は、出先から直帰できる状況に少しだけ浮かれていたのかもしれない。
せっかくいつもより早く仕事を上がれるんだもん、たまにはショッピングをして帰ろうか、それともさっさと家に帰ってゆっくりお風呂に入ろうか。
そんなことを考えながら通りを歩いていると、突然、目の前のアスファルトがポツポツと黒い染みを作っていく。
それはあっという間に真っ黒く塗り潰されて、ついさっきまできれいなオレンジ色に染まっていたはずの空は、いつの間にかどんよりとした厚い雲に覆われていた。


「うそ、今日雨降るって朝のニュースで言ってたっけ……?」

空から落ちてきた大粒の雨を避けながら、とりあえず雨宿りをさせてもらおうと咄嗟に駆け込んだ商店街の軒先。
鞄から取り出したタオルで濡れてしまった肩や髪の毛の雫を拭うけれど、すっかり雨水を吸い込んでしまったブラウスやストッキングが肌に張り付いてすごく気持ち悪い。


「ううっ、早く止まないかな……」

こんな日に限って折りたたみ傘を持っていないなんて、本当にツイてない。
駅までは走るには距離があるし、走るにしてもせめてもう少し雨の勢いが弱まってくれないことにはここから出る気にもなれないし。
こればっかりは仕方ないけれど…と半ば諦めながら恨みがましい視線を空へ送っているうちに、ふと隣から感じた視線。
何の気なしにゆっくりと顔を向ければ、何時からそこにいたんだろう、私と同じように雨宿りをしていた男の人が私のことをじっと見つめていた。


「……雨、止みそうにないね。」
「……そ、そうですね……」


視線が絡み合った瞬間、ふわりと微笑みかけられ、思わず声が上擦ってしまう。
何となく気恥ずかしくなってしまって視線を逸らしてしまったけど、彼がまだ私のことを見つめているような気がして、私はおろおろと視線を彷徨わせることしか出来なかった。
でも、なんとなくどこかで会ったことがあるような気がするのは、私の気の所為かな……?
そう思って考えを巡らすけれど、一頻り考えたところですぐには浮かんできそうもない。
妙な沈黙に包まれた二人だけの空間は、アスファルトを叩きつける雨音だけが響いていた。
そのままじっと空を見つめていれば、濡れた服に急速に体温を奪われて、無意識のうちに身体がぶるりと震えてしまう。


「くしゅん!」

そんな色気のないくしゃみをした瞬間、さっきの男の人が弾かれたようにこちらを向いたのがわかった。
それがすごく恥ずかしくて思わず俯くと同時、ふわりと空気が動いた気配。
その気配におずおずと顔を上げれば、1メートル以上離れて立っていたはずの彼が私のすぐ目の前に立っていた。


「大丈夫?寒い?」
「あ…いえ、大丈夫です……」
「でも、すごく震えてるし…そんなに濡れたままじゃ風邪引いちゃうかもしれないな。」
「え……?」


そう言いながら徐にジャケットを脱いだ彼は、それを私の肩にそっと掛けてくれる。
突然の出来事に目を瞬かせていれば、彼は頭を掻きながらバツが悪そうに呟いた。


「君が風邪を引いたら困るし、それに…その格好はちょっと目の毒っていうか……」
「え……?あっ……!」


その言葉にハッとして視線を下げれば、濡れたブラウスからくっきり透けてしまった下着が目に入る。
それを隠すように彼が掛けてくれたジャケットの裾をぎゅっと握り締めるけれど、よく考えればこんなものを借りる訳にはいかないから。


「あの……!」
「それは今度会った時に返してくれればいいよ。だから、今日はそれを着て帰って欲しい。」
「で、でも……」
「心配しなくても大丈夫、俺たちはきっとまたすぐに会えるからさ。」


それだけを言い残すと、私が止める間もなく彼は土砂降りの中を駆けて行ってしまう。
あっという間に見えなくなってしまった後ろ姿を見つめたまま、私は雨が小降りになるまでその場にずっと立ち尽くしていた。
だけど、彼が貸してくれたジャケットのお陰で、もう寒さは感じることはなかったんだ。




翌朝。
借りたジャケットを洗濯してきっちりとアイロン掛けをした私は、それを鞄の中に入れていつも通りに出社した。
彼は“またすぐ会える”なんて言っていたけれど、もしかして彼は私が知らないだけで私と同じ会社に勤めているのだろうか?
だって、それ以外に会える可能性なんて考えられないし……。


「本当に、また会えるのかな……?」

そうひとりごちながら、私はいつものように毎朝必ずと言っていいほど立ち寄っている駅前の喫茶店のドアを開く。
早朝から出勤する予定のない日には、この喫茶店でコーヒーを飲みながら手帳とにらめっこをするのが私の日課だった。
ここのコーヒーは美味しいし、何よりお店の雰囲気がすごく素敵で、つい長居したくなってしまう素敵なお店。
いつものようにカウンター席へと案内された私は、いつものメニューを店員さんに注文しようと顔を上げる。
すると、そこに立っていたのは……


「……っ、あなたは……!」
「な?また会えただろ?」
「こ、このお店の店長さんだったんですか……?!」
「そうだよ。俺たち、毎日のように会ってるのに、君は俺のこと全然気づいてくれなくて…ちょっと落ち込んだんだぜ?」
「ごめんなさい!でも、だったらそう言ってくれたら良かったのに。いつもその制服姿しか見たことなかったから、私服だと誰だかわからなくて……」
「……俺は君がどんな格好をしていても、絶対に見つけられる自信があるんだけどな。」
「え……?」
「いや、こっちの話。その様子じゃ、風邪は引かなくて済んだみたいだね。」
「あ、はい!ありがとうございました。あの、これ……」


借りていたジャケットを取り出そうと鞄の中に手を突っ込めば、不意に身体を屈めた彼が注文を取る振りをしながら私の耳元にそっと囁く。
その距離の近さに、心臓がどくんと跳ねた。


「お礼は要らないから、代わりに俺とデートしてくれない?」
「えっ……」
「俺、君のことがもっと知りたいんだ。ダメ、かな……?」
「だ、だめじゃない、ですけど……」
「なら決まりな。夕方、あの場所で待ってる。」


そう言いながらパチリと片目を瞑った彼は、ウインクを飛ばして颯爽と厨房に消えていってしまう。
私はドキドキと早鐘を打つ鼓動の音を聞きながら、新しくはじまるであろう恋の予感に、機能とは別の意味で身体を震わせたのだった。


***

「ん、雨……?」

いつの間にか降り出したらしい雨の音にぼんやりと浮上して行く意識。
欠伸を噛み殺しながら瞼を持ち上げれば、剥き出しの白い肩が視界に飛び込んでくる。
そのぬくもりを自分の方へと引き寄せながら、俺はあの日のことを思い出していた。


「あれから、もう一年か……」

彼女のことを一体いつから好きだったのか、なんてことはわからない。
だけど、毎朝のように店にやって来ては幸せそうにコーヒーを飲むその笑顔に、俺はいつの間にか惹かれていたんだ。
とは言え、店長である俺がお客様に気安く声を掛ける訳にもいかなくて、一体どうしたものかとずっと頭を悩ませていたのも事実。
だから、あの日、街で偶然彼女を見つけた時には今しかないって思った。
こんなことを彼女に言ったらストーカーみたいだって笑われるかもしれないけどな。
連絡先どころか互いの名前すら知らなかった俺たちがこんな風に恋人同士になれたのは、きっとあの雨のお陰。だから、俺にとって雨の日は特別なんだ。


「う、ん……?」

雨が運んできてくれた奇跡に感謝しつつ、腕の中ですやすやと気持ちよさそうな寝息を立てる彼女のぬくもりと、やさしい雨音に誘われるまま、俺は幸せな気持ちでもう一度眠りに就いたのだった。