作:石塚環(@tamaki924

すっかり顔色を悪くしているな。
音楽室には僕と彼女しかいない。ひとつの年下の後輩は、壁に飾られたベートーベンやバッハに睨まれたように怯えきっている。

「先輩、無理ですよう。私にソロパートなんて……」
「観念しなよ。本番は明日なんだから」

彼女は窓にもたれかかってグラウンドを見つめている。野球部員の掛け声が三階まで聞こえてくる。30分くらい前までは、この部屋でもあの声に負けないくらいわが合唱部が歌いあげていた。
部活が終わっても彼女は帰ろうとしなかった。僕は帰り支度がもたついているように見せかけて、皆が帰るのを見送った。

彼女の隣に立ち、体を部屋に向けてよりかかった。横目で彼女の顔を見やる。
伏せられたまつ毛が思いの外長くて影をつくっていた。てっぺんをお団子でまとめているのだけれど、不器用でうまくできないらしくおくれ毛が残っている。

「おまじない、してやろうか。どんなにあがってもきれいな歌声が出せるおまじない」
「はい、ぜひ!!」

彼女の顔が華やぐ。こちらを向いた瞬間に腕を軽く引っ張った。彼女は簡単に僕の腕のなかに飛び込んだ。左手で彼女の前髪をあげた。
開けっ放しの窓から春風が入りこんできた。カーテンがはためく。彼女は不思議そうな顔で僕を見つめていた。

ごめんね。

心のなかで僕はつぶやき、彼女の額に唇を押しあてた。おしゃれに音を立ててやさしく、と思っていたけれど、実際は唇がつぶれるくらい強くくっつけってしまった。
顔を離さそうとするより先に、突き飛ばされた。

「な、何するんですか!?」
「何って、おまじないだよ。いまキスしたところから声を出すようにして歌うんだ。おでこの上に歌う妖精が立っているようなイメージだよ」
「いっていることはまともだけど、することが……。さすが校内一のタラシは違いますね」
「それ、いわないでくれるかな……もし僕が本当のタラシなら、これだけで終わらせないって」

愛想良く振舞っていたのがいけないのだろうか。僕は女子受けがやたらといい。
はじめは本命をうまく隠せていいと思ったけれど、このようにアプローチしても本気と受け取られないから困る。

いまだって誰かにくちづけをするなんて初めてのことだった。平静を装っているが、さっきから心臓の音がうるさい。
彼女にふれた唇が感電したように痺れている。いますぐ舌なめずりして口内で甘ったるさを味わいたい。

ふくれっつらでうつむく彼女の手を取った。

「まだ怒っている?」
「……少し」
「それじゃあ、今度は具体的にアドバイスするよ。歌うときは、指揮をする僕を見て。観客も仲間も忘れるんだ。僕のためだけに歌ってほしい」

本当はアドバイスではない。僕のわがままだ。

まだ、きみが入学して数カ月しか経っていない。
走ることも、ボールを投げることも、絵を描くことも苦手だときみはいっていた。音楽の授業でしか褒められたことがないのだと打ち明けてくれた。僕はその教師に感謝したい。
世界中の人が等しく才能の種をもらえるのなら、きみは間違いなく歌声の素晴らしさを受け取ったのだろう。

「それで……うまくいきますかね……」
「できる、できるよ。きみの声を僕はずっと聴いていたからね」

きみがカナリアなら鳥籠に閉じ込めていただろう。朝目覚めるときも、眠りにつくときも、永遠に僕にだけ歌ってほしかった。
きみはまだ自分の美しさを知らない。気づく前に、僕だけのものにしたかった。明日、きみは世界に羽ばたく。きみの魅力が世界に知られる。

もう僕だけのきみではいられない。
きみが輝くことを僕は望んでいるのに、さみしくてならない。


翌日、隣町の公民館に僕らは列車で向かった。公民館設立百周年の音楽祭だ。高文連の練習も兼ねて僕ら合唱部は参加した。

指揮台に立つと、背中がじわりと汗ばむ。いつものことだ。部員、そして演奏者に目で合図をして、タクトを振る。身体に音を取り入れ、旋律をコントロールする。

仲間たちの声に彼女の歌声が混じっているのがわかる。声には色がある。僕は幼いころからそう感じていた。
彼女の声は冬の始まりの空のような淡い色。歌に合わせて濃淡や色が表われる。僕はいつも指揮棒をふるいながら、その変化を聞きわけていた。ピアノの響きをとらえながら、彼女の声に集中した。彼女のソロが近づいている。

音が止む。彼女が声を出した。
いまの彼女は、頼りなげだ。この弱さならひとりでは歌えない。彼女の眼を見て、僕は口を開いた。声は出さないが、歌詞を紡いだ。
彼女の頬がピンクに、やがて薔薇色に染まる。

どこまでも甘く、けれど媚びない芯のある声が会場に響き渡った。観客が息をのむのが背中越しに伝わってきた。無垢で可憐な彼女の声が、僕の身体のなかに染み込んでくる。

合唱を終え僕たちは舞台袖に向かった。部員たちに抱きつかれている彼女を、僕は遠くから見つめていた。観客席からは拍手が鳴りやまない。

もう、きみは僕のものではない。


太陽が沈み始める頃、僕は駅にいた。「お腹を壊した」と嘘をついて、部員たちが乗る列車を見送った。帰りの列車で彼女が皆に褒められるのを見ていられなかった。

けれど、ホームに行くと彼女がベンチに座っていた。

「なんでいるの?」
「先輩、いっしょに帰りましょう!」

僕は何も言わずに彼女の隣に座った。ここは田舎町だから次の列車まで一時間くらいある。空には絵に描いたようなはっきりした色合いの夕焼けが広がっている。

「これ、先生が買ってくれたんですよ」

彼女は紅茶のペットボトルを飲んでいる。陽の光に照らされて、唇が艶めいていて……。
僕は彼女の腕を掴んだ。

「何、ん、ふ……んん」

彼女の唇を奪っていた。ペットボトルが転がって、僕の靴に当たり、靴下に紅茶が染み込んできた。

「せんぱ、い……なんで、どうして……」

離れようとする彼女を抱きしめた。彼女の声に驚きと悲しみが含んでいるのが、目を閉じてもわかる。

「きみをソロパートに推薦したのは僕なんだ」
「え……」

彼女が怯えないように、できるだけやさしく抱く。服越しでもきっと僕の熱が届いているだろう。

「きみの声は、ほかの誰よりも強い。でも、それでいてしなやかなんだ。たくさんの声を聴くのにきみの歌声だけが、僕の奥底まで響くんだよ。だから、だから……きみがたったひとりで歌えば、どんな旋律が生まれるかを聴きたかった」

頭のなかにきみの歌声が響く。いままで僕が紡いだどの歌よりもやさしい響きだった。

「あんなにきれいな歌になるんだね。夢のようなひとときだったよ。でもあれは僕だけの時間じゃないんだ」

僕のためにだけ歌って。
心からそう願っていた。けれど、歌はその場にいる皆のためにある。そのことは僕自身がよくわかっていた。

「これから、僕は嫉妬するだろうな。会場にいる人全員に」

彼女が僕の背中に腕を回してきた。

「私だって嫉妬します。歌っている間、先輩と目が合わないかなって思っているんですよ」
「僕を見てそんなこと考えていたのか」
「だから、あんなキスはいやです」

両手で彼女の頬を包む。彼女のおくれ毛が僕の手にかかった。

「それじゃあ、改めて」

互いに唇をかさねた。恋人としての初めてのキス。一度では物足りなくて数回キスを繰り返した。さっきはわからなかった紅茶の甘さを感じた。

「好きだよ。ねえ、きみもいってくれないか。早く」

彼女がささやく。僕を明るい方へ導いてくれる大好きな声が聴こえる。