作:カメ美(@midogame

 

翌朝、出勤した葵は会社のドアを開けようとしたところで思わず立ち止まってしまった。
昨日の今日で笠原とどんな風に顔を合わせたらいいのか。
まさかの展開に動揺が隠せなかった葵は帰宅して布団に入る頃には「あれはきっと幻だったのだ」と
自分に無理やり言い聞かせたのだが、葵は本当はきちんと理解しているのだ。
幻なんかではなかった、ということを。

ドアの前で立ち往生していると、背後から出勤してきた同僚に声を掛けられた。
いつまでもこうしているわけにはいかないので渋々ドアを開け自分のデスクへと向かった。
すると笠原は既に出勤しており、葵の姿を見ると何事もなかったかのように挨拶する。
席も隣だし、顔は合わせづらいし、話しづらい。
そう思っていただけに拍子抜けしてしまった。
「おはようございます」
葵も取り乱した様子も見せず、落ち着いて挨拶をかわすとデスクの上にメモが貼ってあることに気がついた。

「昨日はありがとうございました。会社では勿論おとなしくしてますので、安心して下さいね。笠原」

メモにはこう書かれていた。
魚のように口をぱくぱく開け慌てた葵の表情が面白くて、笠原は口元を押さえながら
隣の席で笑い声が漏れるのを必死に抑えていた。

笠原の宣言通り、仕事中は口調がくだけることもなく至って普通だ。
会社は仕事をする場所なので、そのあたりの切り替えは教える立場の葵にとっても非常にありがたかった。

週末、金曜日。
部署全体としての笠原の歓迎会が会社近くの居酒屋で開催された。
他の課の面子の姿もあり、何だかんだで20名近くが参加している。
笠原は部長と課長に両脇をがっちり固められていたが、葵も近くに座るように命じられた。
酒の席だし、笠原が何か言い出しやしないだろうか、と葵は内心ヒヤヒヤしていたが、
至って当たり障りのない会話、和やかな雰囲気。
今日は無事に会を終えられそうだな、と予感した葵はジョッキのサワーを一気に煽り、
その後も立て続けにサワーを喉に流し込んだ。
そして、葵が席を外し数分後に戻ると何やら先ほどと空気が違っていることに気がついた。

「三島さん、東京での研修で笠原さんと一緒だったんですね!あの研修、場違いとか文句しか言ってなかったのに、
いい出会いがあったんじゃないですかぁ!」
隣に座った後輩女子が酔っ払い特有の呂律の回らなさの口調で葵に甘えてきた。
「え…っ、ちょっと何言ってるの!?」
更に他の男性社員までもがこう言葉を続けた。
「二人がもう知り合いだなんてさ、そういうのは早く言ってよ」
「研修が一緒でそのあと出向でうちの会社に来るなんて、そんな偶然あるんだね。ねぇ、よっちゃん」
「はい、本当に凄い偶然で僕もびっくりしました」

よっちゃん!?良樹だからよっちゃん?どこの駄菓子!?
葵は思わず盛大に心の中でツッこんでしまったが、それよりもなぜ研修で一緒だったことを知っているのか。

「僕も知っている方が出向先でも一緒だったので安心しました」
笠原はニコニコといつものように穏やかに笑ってはいるが、葵への目線は意味深なもの。

葵は確信した。笠原が自分でこの話題を切り出したことを。

「でも三島さんは厳しいから逆に心配だよなぁ、よっちゃん」
「いえ、丁寧に教えて下さるのでとても助かっています」
「よっちゃんは優しいねぇ。ほら、三島さん!姉さん女房だってよ!」
「実際には僕のほうが年上なんですよ」

なにこの会話。
葵は席に戻るなり一気にくだけ始めた空気にただ呆然としている。
葵の部署は元々堅苦しい雰囲気ではないものの、葵が不在のたった数分間の間に
笠原のニックネームが突然決まり浸透していた。
同時に着任前から顔見知りだったことまでバレてしまっている。
何もやましいことはないが、誤解を招く要素はたっぷりある。
だからこそ、葵はあえて誰にも話さなかったのだ。

 

歓迎会が終わり、店の外へ出て行くと笠原が帰る面々一人ひとりに挨拶をしていた。
葵はあの後、散々笠原とのことで飲みの席でからかわれたので、
早くこの場を立ち去りたかったが、律儀にお礼を述べる笠原の姿を見て
何となく先に帰るわけにはいかない、そう思ってしまった。

すると、笠原が葵に声を掛けてきた。
「三島さん、今日はありがとうございました。これから駅まで行きますよね?僕も同じ方向だから一緒に帰りましょう」

気がつけば大勢いたメンバーは帰路につくために散り、
ほんの数名しか残っていなかった。その中から勿論、からかい混じりの野次が飛ぶ。

「二人とも仲がいいね!三島さん、よっちゃんのこと狙っちゃう?」
「狙いません!なに言ってるんですか!」
葵がむきになって反論すると、笠原が隣でくすくすと笑う。

 

店の前に残ったメンバーのうち、駅の方向に向かうのは葵と笠原だけ。
自然と二人きりになってしまったが、流れる空気はどこかぎこちない。
笠原の発言により、葵までからかわれほろ酔い状態が一気に冷め、
あの後いくらアルコールを摂取しても全く酔えなかったのだ。
少し歩いたところで葵はため息混じりに言葉を発した。

「どうして研修で一緒だったこと喋っちゃったんですか…?」
「だって別に隠すことじゃないでしょ?後から分かったほうが逆に何で黙ってたの?って言われるし。
別に俺たち、やましいことしてるわけじゃないんだから」
仕事を離れ、葵と二人きりのオフの時間。
笠原は以前宣言したようにくだけた口調に変わった。

「それに途中さ、部長に日本酒がっつり飲まされそうになっちゃってさ。
俺、日本酒はあんまり得意じゃないから困っちゃったんだよね。その時に状況を回避するのに
三島さんと研修が一緒だったこと喋っちゃった」
「それって単に状況に困ってうっかり話したってことですよね?」
「そうとも言うかな?っていうのは冗談で。黙っているよりもその方が仕事しやすいかな?って実は前から思ってたんだよね。
でも本当に別にやましいことしているわけじゃないから秘密にしても仕方ないしね」

確かにそう言われれば一理あるような、ないような。
笠原に押し切られてしまったようで葵は心の中がもやっとした。
そんな葵の様子に気がついたのか、笠原は葵の肩をぽんと叩く。

「あの話を切り出した時、場が和んだっていうかそんな気がしたんだよね。
三島さんってさ。俺のが年上だから仕事教えてる時、妙に気を使ってるでしょ?」
笠原の問いかけに葵は何の反論も出来ない。当然ながら相当気を使って仕事を教えているからだ。
「そういうのって周りも多分感じてると思うんだよね。
だから一度くだけた話題をしておけば、三島さんもこれから仕事教えやすいだろうし、
勿論俺も教わりやすい。周りも俺たちに余計な気を使わなくなる。
これっていいループだと思うんだよね」

もしかして、これって笠原なりに葵を気遣ってくれたのではないか。
穏やかに笑う笠原を葵はどこか照れくさそうな視線を送ると、
笠原ははにかんだ表情を見せた。
それが年上の男性とは思えないくらいに可愛らしくて、葵の胸はほんのりと温かくなった。

「誰にもいえない秘密ならこれからいくらでも作れるしね」
はにかんだ笠原が可愛らしい。そう思った矢先に葵の予想外の発言。
「笠原さん、いったい何を…」
「ほら、社内恋愛って最高の秘密だと思わない?」
「え…っ、社内恋愛…!?どうしていきなり飛躍してるんですかっ!」
慌てて顔を真っ赤にし、むきになる葵を見て笠原は面白そうに小さく笑う。
「俺はいずれそうなったらいいなぁ、って希望を持ってるんだけど。
そういうわけで、三島さんの携帯番号とアドレス教えてよ」