作:咲(@chaos_S

ついこの間、楽しみにしていた小説の新作が出た。
その小説はとても好きな作家が書いているから、数ヶ月前から本屋に予約をしていたものだ。
どれぐらい好きかと言えば、その小説に浸りたいがために会社から有給をもぎ取ったほどだ。
新作ゲームのために有給を消化していく人がいるが、あの気持ちは物凄くわかる。
種類は違えど、思いは同じだろう。

そんなわけで朝一に本屋に駆け込んで、楽しみにしていた本を読み耽っていた———かったのだが、何故どうしてよりによってこの日に、彼女が遊びに来るのだろうか。

数日前から『この日は読みたい本があるから構えない』と、伝えていたはずなんだが———。
申し訳ないが、今日に限っては「仕方がない」という言葉はない。
何が何でも本を読ませてもらう。
彼女にその旨を伝えれば、構わないの一言で済まされた。
どうやら帰る気は、ないらしい。

(……いいんですか……)

残念なことに、他人がそばに居て本の世界に入れないほど、繊細な神経はしていない。
本の世界に入ったら最後、本当に彼女を終わりまで放ったらかしておくことになるだろう。

———彼女がそれを知らないはずはないのだが。
それでも構わないというのなら、———その言葉に甘えて存分に浸らせてもらおう。
私はソファに座り込むと、本屋の袋から目当ての本を引き出し、本文を開いた。

ああ、流石だ。一行目から引き込まれる。二行目からは文字を追うのではなく、文字を読んでいる。ああ、楽しい。とても楽しい。これは、予想以上に簡単に本の世界に入れるだろう。


———いつの間にか、部屋から零れる雑音が、一切耳に入らなくなっていた。


パタン、———と本を閉じる。
飲食も忘れて一気に読んでしまった。余韻が残って心地いい気持ちだ。
外れのない作家というのは個人的に珍しいと思うが、この作家はその珍しいに値するだろう。
今まで買った小説で外れたことは一度もない。そして、今回もだ。

「———良かった」

他に言葉などいらない。
無駄に賞賛の言葉を並べて陳腐なものにはしたくない。
その言葉を耳にしたのか、彼女が私の隣に寄ってきた。
ああ、本当に最後まで放ったらかしてしまった。
ちらりと窓に目をやれば、夜の帳が下りようとしている。

「……この時間まで退屈じゃなかったですか?」

「そんなことない。聡が本読んでる姿、好きだから」

「普通は、それでも限度ってものがあると思うんですが」

思わず苦笑してしまう。
限度を超えて本を読んでしまう自覚があるから尚更だ。
すると彼女は「じゃあ、私は普通じゃなくていいや」と笑った。

「それはそれで———いや、私としては有り難いんですが。……たまに貴女のことが心配になってしまいますよ」

彼女は首を傾げる。
だって、彼女の周囲から見たら『私』はかなり変人の部類に入るだろう。
彼女が遊びに来ているというのに、何もせずに本の世界に入り込む。

事前に言っていたとしても、そこは臨機応変に態度を切り替えるのではないだろうか。
彼氏として当然の対応だろう。けれど、私はそれをしない。読みたいものは読みたいので読む。
駄々を捏ねられても譲る気はない。しかも、そこまで自覚をしていても変えるつもりがない。

彼女とて友人はいるだろうし、その話題の中で『カレシ』というものは必ず出てくるものだろう。
『私』のことを他人にどうこう言われても一向に構わないが、『私』のせいで『彼女』が「変人」だの「おかしい」だの言われている姿は———嫌だなと思う。
恥ずかしげもなくそう言えば、彼女は少しだけ考え込んだ。そして、そっと言葉を綴る。

「でも、誰に何を言われても、私は聡のことが好きだから」

———ごめんね、聡。
彼女はそう言ってとても優しい顔で笑う。
そんな風に言われて、叱れる男がいるのなら、此処に連れてきてくださいよ。

「貴女には、敵いませんよ」

「私は、聡の本に敵わない」

彼女は小さく頬を膨らませる。
そんな姿が愛しくて、思わず「……勝ちたいですか?」と訊いてみた。
すると彼女は首を横に振る。

「ううん。勝てなくていい」

続けて彼女は、「だって、本より彼女———なんてそれ、“聡”じゃない」と言い切った。
それはそれで複雑な気持ちにはなるけれど———確かに、本に熱中せずに彼女に気を遣って構うのは私ではない。そんなことをする私がいるのなら、それは平行世界にいる『私』に他ならないだろう。

「もう一度言います。私は、貴女には一生敵いませんよ」

「私は何度でも言うよ。私は、聡の本には一生敵わない」

二人で笑い合う。
心の底から幸せだと思う。
彼女が貴女で本当に良かった。言葉にすれば陳腐になりそうだから、決して口には出せないけれど、———この世で、誰よりも愛してる。そして、そんな貴女に愛されている私は、誰よりも幸せ者です。

「それじゃあ、数少ないカレシらしさを出すために出掛けましょうか」

「こんな時間から?」

「こんな時間だからいいんじゃないですか」

私はソファから立ち上がり、彼女の前に立つ。
そして、手を差し伸べる。
彼女は私を見上げて、笑いを堪えている。
その理由が自分でもよくわかっている。柄じゃない。その一言で十分だ。
けれど、それでも今はそうしたい。
柄ではないと自覚していても。

「———お付き合いいただけますか、お嬢様」

その言葉に爆笑しながら、彼女は「もちろん」と私の手を取った。
さあ、これからの時間は、大好きな彼女を想うただ一人の男になろう。

手招きをし続ける本の世界に、少しだけ———別れを告げて。