作:のこりゆ(@noko_riyu

社会人になってからろくに連絡のなかった幼馴染みの“お姉さん”から電話が来て、

『私のママになって』

社会人って大変だと思った。

きっとお金と社会的な地位の代わりに、大事なものを失う生き物なんだ。
数年後には自分もこうなるのかと思うと、心が重くなってくる。
その前に、まず受験の心配をしろって感じだけど。

「いいですけど、どういうこと?」
『……、ありがとう。
 夏休みの間、住み込みで家事をしてほしい。
 部屋は自由に使ってくれていいし、勉強も分かる範囲で教える。
 もちろんバイト代も払うから』

滅茶苦茶なことを早口で畳み掛けてくる。こうやって自棄になっている彼女は、随分久しぶりだ。
家事に手が回らないほど忙しいのだろうか。
社会人になって三ヶ月程。
この人のことだから、もう仕事にも慣れて、上手いこと生活のリズムを掴んだ頃だと思っていたのに。

「どうしたんですか急に。もうそれなりに経つから、てっきり慣れたのかと」

――俺のことなんか、忘れたのかと思ってた。

『なんだろ』
『ただふっと、』
『言いたくなった』

ポツポツと選ばれる言葉に、耳を傾ける。
俺の好きな、くるくる色が変わる声。

『「ただいま」、って』

記憶と現実が、重なった。
少しトーンの高い方が現実だ。今日はそんなに大変じゃなかったのかな。

「おかえりなさい」

玄関まで迎えに行って、荷物を受け取る。
微かに汗と埃の匂いを纏った今日の彼女は、声だけでなく表情も明るい。
良いことでもあったのだろうか。話を聞くのが楽しみだ。
その前にとりあえず、勤めを果たさないと。

「ご飯、できてます」
「ありがとう! いい匂い。シチュー?」
「そうですよ。昨日食べたいって言ってたでしょ」
「ブロッコリー入れないでくれた?」
「もちろん。それに、パンとご飯両方用意しましたよ」
「さっすが優秀!」

部屋着に着替える彼女を視界に入れないように気を付けつつ、鍋を温め直す。
ワンルームで隠れる場所がないから仕方ないとはいえ、堂々とし過ぎなのは少し困ると、苦情を言ったこともある。
しかし、本人が「私は気にしないから大丈夫」と言って直してくれないまま、俺もそれ以上強く言えないまま、ここまで来てしまった。
この生活を始めて半月。さすがに慣れてはきたが、毎回微かな苛立ちとも焦りともつかないものが募っていく。

「今日は課長に褒められた! あの課長に!」
「へぇ。すごいですね。いつもいじわるなのに」

いつも通り、聞かなくても始まった話に耳を傾けつつ、盛り付けを済ませていく。

「そう! いつもいじわるなのに今日は素直に褒めてくれたんだよ~。気分いい」
「子供みたい」
「人間なんていくつになっても子供さ」
「あなたが言うと、妙に説得力がありますね」
「えっなにそれどういう「さ、食べましょ。いただきます」
「あ、いただきます」

食べる合間にも、ニコニコしながら喋り続ける彼女。愚痴を言っているときより、ずっとかわいい。

本当に嬉しかったんだな。その課長って、一体どんなやつなんだろう。
若いって言ってたけど、顔とか、雰囲気とかは?
今日のことで、この人が意識しだすようになったら、どうしよう。

「その課長、」
「ん?」
「タイプ?」

あ、しまった。と思ったがもう遅い。
今のはダメだ。思っても口にしてはいけないことだった。

案の定、彼女はぽかんとしている。

「ごめんなさい、変なこと聞いた」
「ううん、ちょっとびっくりしたけど、興味持ってくれて嬉しい」

そう言って、柔らかく笑った彼女。
焦りもせず、からかいもせず、ただただ受け流された感じ。
ちょっと考えれば、俺がどういう気持ちでこんなことを口走ったかなんて、すぐに分かるはずだ。
それを分かったうえで、無視して、こういう対応をする。

どうしてこういうところだけ大人なんだ。

「そうだねー。顔は、まぁまぁ格好いいかなあ。
 それにあの歳で課長だから、有能だし将来性もあるし、モテるみたい」
「へぇ、」
「なんかいい匂いするしね。身だしなみにも気を遣ってるから女の子受けいいよ。
 私は性格あわないから、あんまりそういう目で見たことはないけど」

淀みなく紡がれる言葉を聞き流しながら、目の前の食事に集中した。

落ち着いてくると同時に後悔の念に駆られる。
次にこういう面倒くさいことを表に出したら、きっとこの関係は終わるだろう。

早く普段の俺に戻らないと。
この人が、いつも通りでいてくれているんだから。





「よし、ごちそうさまでした。今日も美味しかった!」
「それはよかった。お粗末様でした」

一緒に食器を片づけた後、勉強もしっかりこなしてから、就寝準備に入る。
彼女はベッド、俺は床に敷いた布団にそれぞれ寝転がった。
クーラーを切って窓を開けると、生ぬるい風が入り込んでくる。夏真っ盛り、熱帯夜。

「あっついね」
「うん。明日もシャワー浴びますよね?」
「たぶん。寝汗すごいと思うから」
「じゃあ、今日と同じくらいに起こします」
「お願い」

この人は、こうして暗い部屋で、眠れるまでぽつぽつと会話をするのが好きだ。
はじめは修学旅行みたいで眠れないと言って喋り倒して、次の日げっそりしていたが、最近は随分と落ち着いた。
彼女が先に寝る回数も増えてきたような気がする。信頼されている、と感じる。

「ほんと、いつも、ありがとう」
「どうしたんですか、急に」

だからこそ、

「なんとなく。ほんと、良いママだなって」
「――あぁ」

その信頼をまっすぐ返せないことに、たとえようのない後ろめたさを、感じる。

「……その設定、まだ覚えてたんですね」
「当たり前じゃん。本当いつも助かってますよ」

無邪気な言葉は、責めることができない。だからこそやり場のない感情が渦を巻く。
小さなあくびが聞こえた。もう眠いんだ。今日は早いな。

「今日、はしゃぎすぎたな……、おやすみ」

明日も同じ時間に起こして、見送って、家事と勉強をしながら、帰りを待つ。
いやなわけじゃない。俺を頼ってくれるだけで、信頼してくれるだけで嬉しい。
嬉しかったはずだ。それなのに、最近の俺は。

「おやすみ、なさい」

全部無駄なことだ。
俺はただ、この人の求めるママをやっていればいい。
この夏が終わるまでは。